仙骨座りの正体 〜こんな人多いはず〜

前回の記事では、難なくアグラ座りができたという話をしました。
ところで、私の身体探検の旅はそもそも座り方(苦痛で仕方ない)から始まっていたのでした。
これは、仙骨座りから坐骨座りになったということ。まだ馴染んでないけどね。
腰を曲げようとする人たち
ちゃんと座ってみて、仙骨座りだった理由も分かりました。「股関節を曲げないといけないのに腰を曲げようとして腰痛になる人」症候群と状況は同じでした。「股関節を曲げないといけないのに腰を曲げようとして座れない人」だったのです。

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腰っていう言葉があるばっかりに、そこに意識が向いちゃうんだよね。股関節を一言で示す言葉、一次名詞がないのが現状なのだ。だからそこが抜けてしまって、腰の下は脚、脚の上は腰。骨盤がすっぽり抜け落ちてる。
股関節に実体はあるか
でも本当は違う。脊椎があって骨盤に股関節があって脚なのだ。あー複雑。イメージできない!
それに、関節ってのも本質的にはモノとモノの「あいだ」、つまり「仕組み」だから、極論すればモノですらない。
ついでに言うと、一次名詞である「股」と、「股関節」では指してる場所がだいぶ違ったりする。「股を曲げる」では言葉としておかしい。股は開いたり閉じたり掻いたりするもんです。
知識として骨盤は知っているはずなのに、骨盤という言葉を聞くとどうしても仙骨の上あたりしか実感できないのだった。脳味噌の中の地図に骨盤が登録されてない。地図見た時に、なんか町名の区切りが実態と合ってないところってあるじゃないですか。あれです。
腰を曲げると仙骨で座ることになる
話を戻します。
さあ座ろうという時に、自分が実感できてる=操作できるのは「腰」だけなので、腰骨や仙骨あたりを曲げようとしていたのだ。股関節を曲げるのではなく!
そうすると、椅子に接するところも坐骨ではなくて、「曲げているところ=腰骨」の下端にあるもの、外でもない仙骨!を一生懸命椅子に当てようとしていたのだ。
だって、坐骨がないんだから仙骨を載せるしかないじゃない!
経験が脳みそを変える
ついでにその時の脚の状況についていうと、実際より上に脚がついてると思ってる訳だから、脚が椅子に載らない!嘘みたいですが本当です。物理的には脚が椅子についてるのにそれが実感できない。前提が狂ってるために、触覚やら体感からの情報が脳みそで上手く統合できないんだと思います。
という訳だったのです。以上仮説。
尻が脳みそとつながる

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でね、股関節が頭に馴染むまでの間は、尻を曲げることにします。座るときはどこを曲げてどこを床につけるの?一言で尻!これなら地図にある。脳みそとつながることができる。馴染んでくれるといいな。
なんで言葉の問題なのか?—問題は情報処理なのだ。
なお、今回の状況は、裏返すと「腰骨」も正しく認識できていないということなので、これまた課題。
なんで回りくどいのか
身体についての記事が理屈っぽくて分かりにくいっていう声をいただいております。
「○○だった」という便利な言い方(判断)を出来るだけ避けて、起こっていること、起こりつつあることに密着することで、見えなかったものが見えてくる。
当たり前のことが分からない時、当たり前でないことを見つけたい時はそんな現象学的な方法(と自分では思っています)って有効なのです。「一体何がどうなってんねん!」っていうときは知らず知らず皆さんもそうしているはず。
初めてテニスを習ったとき、腕をゆっくりとぎこちなく動かしながら「腰も回すの?!」「顔はどっちに向けるの?」とかやりませんでしたか?やったでしょう?それを日常生活の基本動作についてやっているだけなのです。
なのでどうしても文章は回りくどいです。今後ともよろしくおつきあいください。
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